「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認に反対する意見書」に対して【反対討論】

各地で出されている「集団的自衛権行使の容認に反対する意見書」が武蔵野市議会でも反対8:賛成14で可決されました。

私は以下の理由により本意見書に対し反対の立場で討論を行いました。

【集団的自衛権行使の容認について】
●「集団的自衛権の行使は、他国のために武力を使う事」ではなく、他国と協調して抑止力を高めることにより「攻められない国」にすることが最大の目的である。

●「武力行使が認められる3要件」を読めば、単純に同盟国に行って同盟国を守るために戦闘行為を行うことや、第三国に乗り込んで同盟国とともに戦うことは限定的行使という範疇を超えており、あくまでも自国のための集団的自衛権の必要最小限の行使容認であり、「他国のために武力を使う」という表現は誤りである。

【憲法解釈の変更について】
●1946年の日本国憲法制定から幾度となく解釈は変更されてきたことは歴史的事実であり、その目的は国民の平和と安全、そして国の領土、領海を守るためであり、その時代の国際情勢に合わせ、憲法解釈を変えてることは、国の安全保障上必要なことである。

●日本国憲法制定時に(個別・集団に関係なく)自衛権その物や、自衛隊も違憲とされてきたが、今日の国民の自衛隊へ対する信頼を鑑みれば、以前の内閣が言ったことは良くて、現在の内閣が言うことは悪いという考え方が間違えであることは明らかである。

【閣議決定による憲法解釈の変更について】
●本意見書では閣議決定による憲法解釈の変更に対し、国民主権や立憲主義の否定であると述べられているが、閣議決定によってすべてが決まるわけではなく、集団的自衛権の限定的行使の限定的容認のためには、閣議決定の後に様々な法整備が必要となり、この先の国会において国民に選ばれた国会議員による審議を経ることになり、これは民主主義国家として当然の手続きである。

以上を持って本意見書に反対する。

 

私は両親が共働きだったため、幼いころは兄弟で祖父母に育てられました。
祖母にはよく戦時中に祖母自身が体験した悲惨な話や、祖父母の兄弟が若くして戦地で亡くなった話を聞かされ、最後には必ず「戦争だけはだめ、もうあんな思いはしたくない」と悲しそうな表情でつぶやいていた祖母の姿を今でも鮮明に覚えています。

大東亜戦争が終結してから今日まで、わが国は一貫して平和国家として歩み、もう2度と戦争を起こさない、そして巻き込まれないということは国民全体の思いであることは、改めて確認をするまでもなく当然の思いであり、今我々が考えるべきは、日本が独立国として「自国の存在のための最低限の権利」を確認し、平和の国日本を後の世代に引き継いでいくためにはどうすればよいのかということであります。

 

発言内容全文↓—————————————————————————————-
「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認に反対する意見書」に対して、反対の立場から討論いたします。

本意見書では「集団的自衛権の行使は、他国のために武力を使う事である」と述べられていますが、集団的自衛権の行使の限定的容認は、決して「他国のために戦争をするため」ではなく、他国と協調して抑止力を高めることにより「攻められない国」にすることが最大の目的であります。

現在、提案されようとしているのは、極めて限定された集団自衛権行使の限定的容認論であり、「武力行使が認められる条件」は具体的に以下の3要件に該当する場合にのみ適応されます。

(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること

(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと

(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

以上の3要件を読めば、単純に同盟国に行って同盟国を守るために戦闘行為を行うことや、第三国に乗り込んで同盟国とともに戦うことは限定的行使という範疇を超えており、あくまでも自国のための集団的自衛権の必要最小限の行使容認であり、「他国のために武力を使う」という表現は誤りであります。

次に、本意見書に反対する2点目として、憲法解釈の変更に反対する意見に対してであります。

日本国憲法が制定されてから68年、各時代における日本の安全保障環境に適合した憲法解釈がされてきたことは、紛れもない事実であります。

内閣による憲法解釈の変更に異を唱える人は多いですが、以前の内閣が言ったことは正しくて、現在の内閣が言うことは間違っているという考え方には疑問を覚えます。

もちろん時の内閣によって、なんの根拠もなく憲法解釈がコロコロ変わるとがあれば問題ですが、1946年の日本国憲法制定から幾度となく解釈は変更されてきたことは歴史的事実であり、その目的は国民の平和と安全、そして国の領土、領海を守るためであった事は否定できません。

1946年、当時の吉田首相は憲法9条2項に対し「自衛権自体は否定していないが、戦力を持つことを一切否定していることにより、結果として自衛権は行使できない、従って自衛権は存在しないことになる」と国会で答弁をしています。

しかし、1950年朝鮮戦争勃発当時に警察予備隊が組織され、その後、保安隊に改組されましたが、1952年の政府による見解は「憲法9条2項は,侵略の目的、自衛の目的を問わず「戦力」の保持を禁止している。」と述べています。

その後1954年7月1日、自衛隊法が施行され、陸海空の各自衛隊が成立し、同年12月の鳩山内閣での政府見解は、

憲法は、自衛権を否定していない、自衛権は、国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。したがって、現行憲法の下で、わが国が、自衛権を持っていることは、極めて明白であり、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段として」の場合ということである。
他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

と、これまで認めてこなかった自衛権を認めると、憲法解釈を変更したのであります。

そして1960年、日米安保条約改定審議の中で当時の岸信介首相は、集団的自衛権についてこう述べています「他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されており、そういうものはもちろん日本として持っている」と答弁し、集団的自衛権を保持しているだけではなく、広い意味での集団的自衛権行使は容認しています。

その後、1972年の田中角栄内閣、1981年の鈴木善幸内閣では、「集団自衛権は保有しているが行使できない」と解釈し、現在はこの憲法解釈が踏襲されている状態であります。

このことによって、今までも解釈を変えてきたから、これからも変えて良いという単純な話ではありませんが、その時々の国際情勢に合わせ、憲法解釈を変えてきていることは事実であり、これは国の安全保障上必要なことであると考えます。

そして、本意見書に反対をする3点目として、閣議決定によって憲法解釈の変更を行うことは、国民主権や立憲主義の否定であると述べられていますが、閣議決定によってすべてが決まるわけではなく、集団的自衛権行使の限定的容認のためには、閣議決定の後に様々な法整備が必要となり、これは当然、この先の国会において、国民に選ばれた国会議員による審議を経ることになり、これは民主主義国家として当然の手続きであります。

以上の3点を持ちまして、私の本意見書に対する反対の根拠といたします。

カテゴリー: 武蔵野市議会 パーマリンク